一本杉跡は、波佐見町で文化財の指定を受けています。 これは今から220年ぐらい昔、文化12年に大村藩と佐賀藩との境を決める時の目印として杉が植えられていたのですが、その後一本杉が枯れ、石塔を建てて、ここを境にしていたということです。
ここから見てわかるように、山の嶺で境目を決めて境界線を決めていったのですが、この一本松はその印となっていました。 ここの下のお寺のところは今、佐賀県の有田町になっています。 よって、ここの下は池本さんの茶畑ですが、有田町の甲の1の2というところで、ここは有田町でも一番端になるところです。 そしてもう少し北の方へ行くと山内町になりますが、有田町と、山内町とに別れていることになります。それから東側になると嬉野市になり、南側は東彼杵郡となり、ちょうど境界となるところです。
ここからずっと西の方へ行ったら、村木の三領石というのがちょうど、大村藩と佐賀藩との境目を決めたところですが、その間ずっとつながって松の木を植えたり、松がないところは塚を築いていったそうです。そしてその塚は、長崎県側が角塚、佐賀県側が丸塚という形で印を決めて嶺伝いに築いていったそうです。 また、陣の辻から東へ山の嶺を下って矢筈ダムの手前の方に岩採といいますが、その山の峠のところまでいってそれから仏坂、三の股の先まで境界が決められています。 このようにして境が決められましたが、この境により水の流れも違っています。有田町の水の流れは伊万里の方へ流れていき、山内町の船の原の方に流れた水は、唐津の方へ流れていきます。また、波佐見を通ったものは、波佐見川、川棚川を流れていき、武雄の矢筈の方へ流れる水は絶対に波佐見に入ることはなく、今度は六角川といって、これは塩田の方に流れていき、有明海に注ぐわけです。このように、川の流れで境を決めていったという、珍しい地区ともいえます。 昔は境野村というのがこのあたりにあったそうですが、その当時ちょうどお寺の前のみかん畑あたりは、造り酒屋さんがあり、そしていろいろな峠の店が佐賀県側にありました。 それから、この辺だろうと思うんですが、佐賀県側で境野番所があったところです。そして以前、亀のなかに入ったお金とかが出たことがあるそうです。 ところが境界を決め、佐賀藩側と大村藩側に分けてしまったため、境野村というのが二つに別れてしまったそうです。 どのようにして二つに別れたかそのいきさつはわかっていません。
番所については、昔は焼き物の焚き物として、山の木を伐採し出荷されていましたが、佐賀側と長崎側で焚き物の取り合いがされていたそうです。そのために境界の番をしたというのが境野の番所でもありました。それから小樽の仏坂のところにも神近市子さんという何期か国会議員をされ、勲二等だったと思われますが受章された有名な人がおられましたが、その人の生まれた所も番所の跡なんですが、ちょうど境のところにあります。 ここの番所が一番最後に役目を果たしたのが、今で言う警察官の詰所になって、今から120年くらい前の明治十何年ですか、江藤晋平という人たちが、「佐賀の乱」というのを起こしたとき、大村側がここで逃亡兵を取り締まるために、役目を果たしたということです。その時には野々川の人も10人ばかり駆り出されて、1週間ほど詰めていたということです。 そしてこのあたりには、牢屋とかがあったということだそうですが、詳しくはわかりません。 平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成