ここの茶畑は、今は佐々木さんが栽培しておられますが、大正6年に県道の下から、久保田さんの元の屋敷跡の上のところまで共同で開墾し、初めてお茶を植えた場所です。
 その当時は、波佐見の村長さんで小川寅二先生という人がおられましたが、その人がとにかく生産を上げ、 金が取れるような産業を興そうという運動を行い、そして野々川はお茶を拓こうということで野沢栄作爺さん、池田カジュウさんとか十数人で最初に茶畑を拓いたところです。
共同茶園がされていた所
 これが元になって「広畑 (ヒロバタケ)」とか「管田 (カンデン)」などに茶畑が拓かれていきました。またお茶の他にたばこやマウランなどお金になるものを作り、村の生活の基礎が作られたということで一番起源になったところがここです。

 ちょうどここで開墾されたときに黒く土の固まったところがありましたが、そこは昔の焼き野の跡というより、生活の上で何かしていたところではないかと思われます。ここは「アメウシノクボ」と言うところですが、たぶん野生の牛が捕れていた所ではないかと推測しております。何千年も昔の人は、アメ牛という大きな牛をここで解体していたのではないかと思われます。昔の石器がここからたくさん出土されたのもそのためと考えられます。

 また、昔は牛の他に猪や鹿、もっと昔になったらこの辺は、なんか象の一種のようなものがいたと歴史の先生は言っています。さらには何万年前には、うちの茶畑がここの先にありますが、 石垣を積むとき、 そこの石を割って使ったときにアンモナイトがついていましたが、ここが噴火したときに、 海底だったところが盛り上がった場所ではないかと思っています。

 そして武村さんの横も石垣をしていますが、あそこも石にカタツムリのようなものもついていました。それから、「ドンドンズベ」というところは砂岩ですが、道作りの時にそこの石を割って使っていましたが、石の割れ目のなかに広葉樹の葉の形をしたものが出てきていました。ここは第三紀層といいますが、多良岳が噴火したり、虚空蔵山が噴火してできたといわれていますが、昔のつながりが今になって見えてきます。

 ここの地名が「アメノウシクボ」いいますが、同じように野々川には字名として残っていない場所がいくらでもあります。例えばここの近くに「ミミトイワ」という所があります。その先は「鳥越 (トイゴエ)」、その下は「赤水」、「メクラオトシ」と言うところもあります。 その先が「百枚田」、「石原」であり、「後平 (ウシロビラ)」とか「四郎左エ門 (シロザエモン)」、「カユミ」、「管田」など地名がありますが、何かのいわくがあり、それを考えるとおもしろいと思います。

 野々川の戸数は明治時代から比べてほとんど変っておらず、82戸、90戸なって、79戸くらいでずっときていましたが、ダムができたりして、今になって少し変動があっています。


平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成
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