開閉所


 波佐見には昭和19年まで、金山がありました。
 日本の国は、一番大事な時期をこの波佐見の金山があったことでしのぐことができたといわれています。というのも日露戦争がありましたが、日本の国も近代化の最中で資金が不足していました。そのため外国からお金を借りる時に、波佐見から良質の金が出るという宣伝で世界の銀行からお金を借りて、いろいろなものを簡単に調達できたということが日本の歴史に残っております。

 私が小さいときは満州におりましたが、波佐見金鉱局と言っただけで、波佐見がどこにあるかすぐにわかるくらいにありました。

 ちょうどこの時に川上発電所というところから、平越の方に電気を送るのにコンクリートの電柱をここまで立て、高圧電線を張り、ここに開閉所と言って今で言う変電所を建てて電圧を下げ、金山の方に送っていたそうで す。
 そして火力発電所を金山が独自で建てるまでの間、川上発電所の水力発電を利用するために、ここに開閉所がありました。
開閉所跡地(平越のグランド内)
 その専任電工として、真木さんのうちの先祖になります定吉さんとか小樽におられた武 藤さんという人が入っておられました。
 そしてうちの家は昭和18年に建てましたが、ちょうど品物のない時期に、残りの電線を持ってきて、真木さんが電線の配線をしてくださったという記憶があります。 

 送電線はその後延びて、変電所が防辺田になり、そしてまた先に延びて甲振園にでき、下の方に延びていきましたが、波佐見で一番早く高圧電線、電気が来たのは野々川ということです。そして電話も一番早く入ったのも浦野さん宅だろうと思います。

 野々川の家庭に電気がついたのは、波佐見でも最も早く、大正8年についています。
 なぜそのように早かったのかというと、当時の人の先見の明があり、また開閉所があったことから、電気を早く引こうということで、講をたてて貯えておられたそうです。
 そのため、電気が一度に引かれたのではなく、あっちに一軒‘こっちに一軒とつき始めたのが大正8年からです。平越からつき始めたか、境野からかはわかりませんが、こうして十何年かかって野々川中ついたそうです。田別当は一番遅く昭和40年代だったと思います。


平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成
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