野々川にはしめもと制度というのがあって、お宮のお祭りの当番や、あるいは部落の行 事のいろいろな雑用を受け持つ役割をしていましたが、明治8年にこの野川定七さんが今で言う郷総代をされて、しめもと制度を始められたことが、しめもと会議の第1 ページに書いてあります。

 ちょうど明治3年か4年頃ですが、飢謹で米が非常に不作の時があったそうです。しかし死人や病人が出たり、お祝い事をしたりと日常の生活でいろいろな物入りがあったりして、生活が非常に困窮して、家族が分散してどこかへ行ったりしていたそうです。

 それで、これは何としなければならないということから、お互いに助け合うことを目的にしめもと制 度を作ったのが野川定七さんです。しめもと制度は、米をつないだり、このような墓地の松を切ったりして売った金で米を17俵買ったそうです。17俵買って、それを困っている家庭に貸付米としてやった そうです。

 それで、野川定七さんの死後、その徳を記念して野々川郷中でその当時約1円の講ですけれども墓を建ててさしあげたのがこの墓です。結局、野々川の助け合いや共同の気持ちを育てるもとになったのがしめもとであり、野々川の精神というのにつながってきているのですね。
 野川さんは寄せ墓をしておられますが、この墓だけは台にのせて見えるようにしておら れます。

野川定七さんの墓
平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成
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