野々川の地蔵様と聖徳太子様と戦没者の記念碑がここで奉ってあります。この地蔵堂のことについて話をする際、一番最初から言わなければなりませんが、ここは昔は神社でした。たぶん山中の熊野権現さんの分社として、奉っていたのではないかと思われます。そして野々川中でお祭りをしていたわけですが、ところがキリスト教が420年前に流行り、この野々川の人たちもたくさん信仰をしたそうです。
お堂の中で地蔵様の話を聞く
 そして、キリシタンは神社やお寺などをいらないということで壊したときがありました。 ちょうどその当時波佐見では、教法寺や東善寺などがあったのですが、そのお寺も一緒に壊したそうです。野々川の神社についてもたぶん、ここの下の所に鳥居もあっただろうと思われますが、それも含めて壊したそうです。

 野々川の神社を壊している時、矢筈の人たちは、野々川の人たちはもったいないことをしているということでこの神社を譲り受けたということです。その権現様は矢筈の下の方に今ありますが、それではなかいかといわれています。

 その後、今度はキリスト教の信仰禁止の布令が豊臣秀吉時代に出て、また長崎でキリスト教を信仰していた人たちを処刑したため、信仰できない世の中になりました。それで野々川もキリスト教信者がだんだんなくなってしまいました。

 ところが、この野々川を支配していた当時の殿様が、「野々川はどうしているのだろうか、 仏教徒になってしまったのだろうか」と心配しておられたのですが、野々川の人たちは何もお参りする対象がなかったため、仏さんに代わるのを奉ろうということで平越に地蔵堂があったのですが、借り受けてお参りをしていました。その時は西浮流をして、綾竹踊りをしながら、平越から現在の地蔵堂まで、行列をしてきたと言われています。
 また、この地蔵さんは重たい石すので、紐で結んで、背負って来ていたのですが、大概の人は5分も背負いきれなかったそうです。ところが平越の人は軽かったということです。
地蔵堂外観
 その後、寛文12年といいますから350年ほど前、野々川の神社の後に地蔵堂が建てられました。その後何回も立て替えがあっています。そしてお祭りをするために、野々川の浮流立がされてきています。
 地蔵さんに掛ける前掛けは、地蔵盆の8月23日の祭の時に饅頭の葉のように編んで、これを掛けていますが、これは野々川のしきたりとして今に残っています。
 またこの地蔵の裏には、原才兵衛尉前宣 (ハラサイジョウノエアキヨシ) という人が大村の人に魂を入れてもらって、平越の地にこれを建てると書いてあります。原才兵衛尉前宣という人の子孫は大村の竹松でお医者さんをしています。


平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成
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