「今からちゅうた話をしますけんな」
野々川で一番最初に名前のある人がおられた屋敷だろうというところが、大本さんの上にあります。矢場原をまっすぐ100m下ったところに墓の石が並んだのではなかろうかと思われるところがあります。そこに、もう亡くなられた富永シロジさんや川内勇さんたちが小さい時、メジロ取りにいったりした際、墓石が立っていたのを覚えておられたのですが、それに和泉三郎何とかと書いてあったと言っていました。
詳しく調べたところ、800年ほど昔、日本の国に藤原清衡という人がおられたことを聞いたことがあると思います。この人は源頼朝から追われて、奥州、今で言う宮城県に平泉と言うところがありますが、そこに中尊寺というお寺があります。
そこで勢力を構えていた藤原家というのがありましたが、最初の名前が藤原清衡でその子供が基衛、その子供が秀衡というのがいます。その3代の子供に泰衡、国衡、忠衡がいたわけですが、その藤原忠衡が流れてきたのがここではなかろうかといわれています。
なぜなら、藤原忠衡は源頼朝から討ち死にされたと言われていますが、墓がないということで、どこで死んだかわからないということと、その当時、佐賀県の有田から唐津を治めていた松浦党は藤原鎌足の子孫であったのですが、忠衡のお母さんは鎌足の子孫であったことから、松浦党を頼って佐賀県に入ってきたのではなかろうかと言われています。
その頃に平家の滅亡と同時に、平家の一族のなかの藤原の六何とかという人が三間坂に九人の公達とおちてきて、この辺に住んだのですが、その時と同じくして源頼朝から滅ぼされ、平泉の方から逃れてきたのが和泉三郎藤原忠衡という人ではなかろうかと言われているのです。
和泉市というのが宮城県にありますがそこで勢力を張っていた氏族が和泉三郎です。 藤原の秀衡のめかけの子だったのですが、その人が三男坊で源義経と非常に年が近く、仲が良かった人がここに来ておられるのではないだろうかと言われております。
そして大本さんの家の上に村瀬さんの畑がありますが、そこの水の出るところに水神様を奉ってありますが、結局大本さんの横の川が野々川の水の源で、そこが忠衛の屋敷跡ではなかろうかと言われています。
そしてその屋敷跡にはその後、2反5畝の共同茶畑を拓き、昭和15年に電化した茶工場が立ちました。
平成14年の野沢義典さんの「ちゅうた話」をもとに構成