ここには戦死者の祈念碑がありますが、野々川では27人が戦死をしておられます。それでみんなでお奉りをするため、祈念碑を建てようということで以前、矢場原に忠魂碑を建てていましたが、部落全部でお奉りをするということでここに移りました。
戦没者祈念碑
 また道路記念碑もここに立っていますが、これは野々川の本道路は、2~3回に分けて道を作りましたが、最初の道を作ったときに道路記念碑を作られたものです。

 明治時代は、野々川は小樽からの道が本通りでした。
 それで皆さんのひい爺ちゃんの頃、明治10年頃は小学校は三ノ股小学校と言うところに行っていました。三ノ股小学校に行くには、小樽の道を通って「西谷(二シンタン)」から、「カイヌシノサカ」を通って、永尾山に出て、永尾山から三ノ股のちょうど永尾と三ノ股の間の所まで行っていました。以前はそこは皿山役所と言うところでしたが、その跡地に学校を開いて、そこに野々川、永尾、三ノ股、小樽の人たちは通って行っていました。
 それから後、 内海小学校に変り、そして内海から西の原へ移りました。

 このように変化したなかで、野々川の村作りのためには道路を整備しなければならないという昔の人の考えから、まず小学校までの道を整備しようということで、 小さな道に架けたり、車力の通るような道を作ったのが今の道路の始まりです。
 そしてちょうど2メートルから3メートルくらいの幅の道路に拡幅し、 それから更に広げて4メートルの道路を作り、 車が通るようにしたのが、ちょうど昭和12年頃です。そのように2、3回かけて湯無田の大日から山中を通り、坂口の茶冷蔵庫の所までちょうど4キロメートルを整備しました。

 その道は当時、整備費用として4300円かかっていますが、そのうち波佐見から補助金として600円をいただいたということです。しかし、整備費用に労賃は全く含まれず、野々川の人たちが無償で 1ケ月出たり、半月出たりして整備をされました。

 そして昭和26年には、野々川の青年達で4Hクラブというのがありましたが、村に自動車が上がるような道を作 ろう、そうしないと集落の発展はないということで、境野の県境まで約10年かかり、坂口から4キロメートルが延長されてできあがりました。
 その時波佐見町からは、町の 事業ではなく、郷の決定でやったので、測量でも何でも野々川の人がやりました。それで中野七太郎さん達が測量をして道路が整備されました。
道路記念碑
 その後、昭和47年には県道になり、そしてダムができたので、舗装がされるまでになり、野々川がだんだんと近代化されてきました。
 このように若い人達が決断しないと道路はできなかったのですが、道路整備には相当、家の事を犠牲にしながら、できあがっていったという精神を受け継いでもらいたいですね。


平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成
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