ここの谷の名前を姥子谷といいます。爺ちゃん婆ちゃんにどこに行ったかって言われたら、「ウマンクッタンに行った」と言ってください。
最初は私達も「ウマンクッタン」とはどう書くのかと思っていました。
馬の靴の谷と書くのだろうかと思っていましたが、本当の名前は「姥子谷」で、なまって「ウバンクッタン」と言っています。
なぜこのように書くかというと、これは左が巫女さんの墓で、おそらく右が姥さんの墓って思うわけです。今から約4 7 0年ほど前、ちょうど大村方と佐賀県は武雄方と戦争がありました。その戦いは、大村純忠公と武雄の五島貴明の間であったものです。
この2人は本当は義理の兄弟になる人たちで、大村の殿様は島原の有馬というところから養子で来られました。そして本当の大村家の血を引く大村貴明が武雄方に養子にやられ、五島貴明になられたのです。
それで大村は自分の領地であったということで取り戻すために戦争をされたそうです。
そしてその戦いは、大村方が内海というよりも館の観音様の上の高い山のところにあった城を内海城といいますが、そこの城主である内海(うつみ)正広という人と、武雄方は陣の辻の裏に船の原城というのがありましたが、そこの城主、龍造寺家種(五島貴明の養子息子)とで行われました。
内海 正広方は姥子谷を登った所に野々川から見ると高い山のように見えるところに清正陣を構えました。
野々川は清正陣といいますが、小樽や湯無田の人たちは、岩陣といいます。それからもう一つ白川山といいますが、佐々木さんの山のあるところに龍造寺家種が陣を構 えあって戦争をしたそうです。
この戦いでは清正陣が急先鋒になったところですが、ここ に陣地をはり、守ったのは内海正広の娘さんで照日姫という人で、本当は照と言う名前と思います。
照日姫はお祈りをすることによって、敵を追い散らしたりするような不思議な力を持つていたそうで、照日観音と後でいわれています。
そして大村の殿様達から戦勝祈願をしてくれと頼まれれば、お祈りをして戦争に勝つことができていたそうです。
その人がここに陣をはって戦争をしていましたが、敵である龍造寺勢の弓矢に当たって、10数メートル上の断崖からここの近くまで落ちてこられ、大けがをされたそうです。
そして大けがをしたお姫様を姥さんがここまで連れてきて介抱をされたそうですが、けがが重くここで戦死されたそうです。お姫様が亡ったため姥さんも自分の胸を突いて亡くなったというのがこの墓です。そういう方がここに二つならんでいるのです。ここはもしかすると墓でなく、戦死の場所として奉られているのではないかとも推測されます。
この話は野口常夫さんの婆ちゃんで野口ますえさんから聞いたのですが、ところがそれを裏付けするように、清正陣の一番上にはお祈りをするときに書かれたと思われる「大日」という字がたくさんあります。それから星と星を結ぶような形や、鳥の足跡の形などの図形がたくさん書いてあります。
そのようなことから照日姫を石打観音といい、あだ名を石打巫女、そしてこのあたりを石打ということから本当ではないかと思っております。
こうして戦勝祈願をしたというそこには畳2枚か3枚敷けるような岩がありますが、その岩を掘り返せば掘り返すほど、たくさんの字が出てきます。
そして、そこから落ちてきた時に着ていた鎧といわれているものが、今湯無田の館の山 口さんの家にあり、私は以前見せてもらいました。
そのかぶとの上は錆びてぼろぼろになっており、鎧は一枚一枚はがれてしまっていていました。結局十数メートル落ち、傷だらけになっているし、それからあわてて介抱するために刀で切って鎧を外したため、鎧がバラバラになっているのをそのまま保存しており、実物を見て当時の戦いの言い伝えが理解されました。
この戦いを「茅地が原の戦い」といい、波佐見全土が戦地となり、一時五島方の領地となったそうです。
平成14年の野沢義典さんの話をもとに構成